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住み慣れた家で死ぬということ
〜死のノーマライゼーション・死の日常化へ向けて〜 |
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看護実践の科学 99.5月 |
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死の場所と形、自分で決める 最近、自ら死の場所と形を決めて逝かれた患者さんお二人をお見送りさせていただ いた。どちらも80才台の男性で奥様や子、孫達に囲まれての住み慣れた家での最後
だった。 「せんせい、検査や入院はしんどい、もういやや。もうちょっと元気になったら入院して検査するわ。それまで待っといて。」 もうひとりのHさんは徹底的な医者嫌い。一生医者にはかからない、と豪語し酒、 タバコをこよなく愛した。その彼がどうゆうわけか、私のクリニックにやってきた
。そのわけは、「いきなり家で死ぬと警察ざたになるらしい。それは困る。ときど き診に来といて死亡診断をして欲しい。ただしクスリはいっさい飲まない。」 遺言書 この遺言書を受け取った2日後、私は病院からHさんが呼吸困難で救急入院したが 、もう退院すると言っている、との連絡を受けて病院へかけつけた。「夜中に胸が
苦しいてたまらんようになって入院してしもたがもうラクになった、やっぱり家へ 帰る、あんたに死に水をとってもらう。」結局希望どおり家に帰ったTさんは少し
の酒とタバコを続けながらだんだん弱っていった。けんめいに支える家族に見守ら れて遺言書のとおり今度は入院もせず、酸素もクスリを受け付けず本人が決めたと
おり逝っていった。私はただ看ていただけだった。 自己決定によりそう医療 本人の希望にそった医療を心掛けて町医者としてできることをしようとしたら、で きること、することは何にもなくて、ただ看ているだけだった。それでも家族は本
当によろこんでくれたし、私自身もなにかやり遂げた満足感があった。それぞれの 時点での自己決定が正確な情報と予後の予測に基づいているのか? 死の日常化に向けて 病院という医療の砦の中での死ではなく、住み慣れた家という患者さん自身のフィ ールドでの死。家族やペットやお気に入りの食器や思いでのある家具、見慣れた天
井のしみに囲まれてゆったりと人生最後の時を過ごす。それがそんなに贅沢でかな わぬことなのだろうか。そこには患者、家族をふわっとっさえる医療者がいればい
い。決してしきったり、押し付けたり管理、指導、教育したりしない医療者が。患 者さん宅へ訪問すること自体本当に望まれているのかどうか、立ち止まって考えて
みることも必要だろう。そしてそこではとりあえず患者さんの死を決定するのは必 ずしも医師でなくてもいいかもしれない。在宅では脳死もないし、法的に定められ
た2通りの死なんて全く意味がない。家族が感じた死を医者は確かめ追認すればいい 。臨終という人生最後の厳粛な時に医者が無理に立ちあう必要もないかもしれない
。家族だけでしっかりお別れし、息を引き取った後でおもむろに医者を呼ぶのもよ いだろうし、心配ならあわてて医者を呼ぶのもいい。家族が決めることだ。ただ医
者はそれまでに家族に当たり前の死の過程について、決してもがき苦しんだり、突 然目を見据えて宙をかきむしってバタッとこときれたりしれないことを説明してお
くことだ。 住み慣れた家での死を当たり前に看取ること、死を病院から家に、地域にとりもどすこと。せっかく病院から、医療から離れて自由になろうとしている死を再びター
ミナルケア、ホスピスといった言葉で代表される新しい入れ物の中にかこいこんで しまわないように。住み慣れた家でゆったり死んでいく人を家族や、近所のおばさ
んや、ヘルパーさんや、看護婦さんや町医者がちょっとあわてたり、悲しんだり、 あきらめたり、ほほえんだりしながらなんとなく看取る、そんな死の日常化で向け
てゆったりすすんでいきたい。
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