まちかど診療日記
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「良い医師」とはどんな医師か、考える機会をつくってみては?

私の考える良い医者とは?

JAMIC JOURNAL 2004.7月号
さくらいクリニック
院長 桜井 隆


私って誰?

 私の考える良い医者とは? 医者である私が考える良い医者、という意味だろうか?
私が病気になったらもちろん”良い医者”に診て欲しいとは思うけど、、
世間一般を見渡すと患者さん達はあまり良い医者に出合っていないようだ。だからこそ病院、医者選びのガイドブックがどんどん売れている。そしてマスコミは医療ミスをおこした良くない?医者のことばかり報道する。クオリティとアメニティの高い医療を安いコストで提供しろ、、この医療業界に対する世間一般の風当たりはなかなか厳しい。この御時世に良い医者とは?という企画を立てて、マスコミにバッシングされっぱなし?の医者を勇気づけよう?という編集長のお気持ちはうれしいのだが、、 、。一応医者である私が独善的に良い医者、について考えてみてもあまり意味があるようには思えないので、良い医者、をどんな基準で考えるか、1人称か、2人称か、3人称か?という視点にこだわってみたい。

ギョーカイの常識=世間の非常識

 今まで専門家である医者が自分達で良い、と思ってやって来たことが世間一般の常識とすいぶんかけ離れていてあまり受け入れられていない、これが今の医療ギョーカイの一番の問題点だろう。なにもこれは医療に限ったことでなく、全て専門家、という人々が存在する業界にはありがちなことだ。
たとえばマスコミという専門業界でも。 業界紙でもあるこのジャーナルで、医者自身が良い医者とは?と語ることの意味はなんだろう。もちろん理想を語ることはすばらしいことだし、夢を描かなければ、夢に向かって進むことはできない。すべての作業がその業界内部のみで完結するのであればここでの理想はそのまま受け入れられる。問題はほとんどの場合、利用者は業界外の一般の人であるということだ。業界内の良い、悪いの判断基準が一般の利用者の座標とかけ離れていたとしても、業界内部では気づきにくい。そういった過ちを繰り返さないためにも『私の考える良い医者』の”私”とは医療の利用者、患者でなければならないだろう。
サービス提供側の条件ではなく、サービスを受ける側の都合を考える、利用者立脚型視点への転換、をうまく行えた業界は一般社会に受け入れられているようだ。うまくいかない典型が専門性の高いこの医療業界。最近この医療業界でも行われるようになった利用者である患者のQOL評価でさえ、実際は医者自身がアンケートを実施することですでにバイアスがかかってしまい、真の意味で利用者の立場での評価になっているのか疑問ではある。やっと社会全体の情報公開、開示の波が医療業界へも押し寄せてきて変わりつつはあるし、電子カルテ等を用いた情報開示も進んではいるが、情報共有に基づいた利用者の自己決定、への道のりはまだ遠い。一方的に与えられたサービスに対して良い、悪いを判断する時代から(これさえ今だに困難なこともある)、利用者も参加した上で評価してフィードバックする、ようやくそ ういった利用者参加によるアセスメントが始まったところだ。現状では医者、患者双方とも不慣れで多くの摩擦が起こってはいるが。

異文化圏としての医療業界

 専門家としての医者、と一般人である患者が出合う局面ではある意味で異文化、異なる言語間でのコミュニケーションと同じ状況がおこる。そういった二つの異なる世界がぶつかる局面、インターフェイスではさまざまな摩擦がおこる。二つの文化、宗教、人種、男女、人間と動物、人間とウイルスetc。こういったインターフェイスで摩擦がおこるか、融合できるかはかかわりあう双方の事情や力関係などさまざまな因子に左右される。
また違う切り口でみれば、日常生活でもさまざまところで2つの異なるものが対峙している、専門家としての医者と一般人としての患者が向き合う医療現場という局面でもさまざまな問題が起こっている。社会のあちこちでこういった「専門家 vs 一般人」という構図がみてとれる。そしてその専門性が高ければ高い程、その局面での摩擦は大きくなる。医療や司法の現場はその典型だろう。
さらにややこしいのは、異なる言語を話す異文化圏とのコミュニケーションと違って本来専門家と呼ばれる人々は仕事が終わって家に帰れば一般人、一般の言語も話すバイリンガルである、ということだ。にもかかわらず一般の人々が専門家集団に対して持つ話しにくさ、コミュニケーションのとりにくさに由来する不信感はなんだろう。
専門語と一般語、どちらもわかるバイリンガルのはずの専門家が、専門用語で話してしまう、あるいはバイリンガルであることを鼻にかけて偉そうにする、そんな構図が見え隠れする。専門家がその集団内でのみに通じる言語で良い、悪いを語ったとしても、自己完結してしまう議論には限界があるだろう。従って医者が考える”良い医者” は一般人向けのマスコミに発信され、その批判を受けた方がいいし、業界内のジャー ナルには一般人が考える”良い医者”を掲載すべきなのかもしれない。
マスコミというこれまた特殊な専門家集団の問題点も浮かびあがってくる。すべての業界に侵入して、その内情を一般に暴露?することを生業とするマスコミもそれ事態、世間からかけ離れた特殊な業界、であるということだ。医療業界の白い巨塔はマスコ ミによってそのベールをはがされるが、言論の自由という砦に守られたマスコミ業界の巨塔への侵入はかなり困難といっていいだろう。
そういったマスコミと医者の関係はかなり険悪、といってもいい。医者バッシングで 売り上げを伸ばそうとするマスコミ、ミスや事故ばかりとりあげられ、揚げ足をとられるから、とマスコミを忌みきらいう医者。この不幸な関係は今に始まったことではない。ある医療系メイリングリストへのマスコミ関係者の参加の是非を問う質問には、賛否両論のメイルが殺到した。まさに、マスコミと医療、二つの専門性の高い業界の接点での摩擦を垣間見たようだった。マスコミの報道姿勢が、一般人の医療に対する良い、悪いの価値判断に大きな影響を及ぼしていることは事実だ。マスコミと医療、 この不幸な関係、摩擦はそのまま一般人との関係にもつながってしまう。インターフェイスでの摩擦は、お互いが相手を認める対話でしか解決できない、とすれば、まず話 し会いのテーブルにつくことだ。とにかく機会を見つけて話し合うしかないだろう。
それはどんな境界面、インターフェイスでも同じことだ。

”私”が”あなた”そして”みんな”になる時

  仕事上、専門家として一般のすべての人と接点を持つにもかかわらず、日常では一般人と接する機会が少ないのもこの医療業界の特徴だろう。
「あなたは今週、家族以外で、あなたを”先生”と呼ばない人に何人会いましたか?」 こういった閉鎖された環境で、専門家として研ぎ澄まされていけば行く程、一般人の感性からは遠くなっていく。境界面での対立を融和に変えるのは対話しかない。そしてお互いその内部事情のみに基づいた良い、悪いの価値判断ではなく、相手の領域での価値観、その業界内部だけに通用する座標軸での位置確認ではなく、社会一般、あるいはその利用者個々の状況にあわせたオーダーメイドの座標軸での価値判断が要求されるのだろう。 私、ではなくあなた、あなたでなく、みんながそれぞれに考える” 良い医者”でなければ意味はない。そして私が患者として医療を利用する時にはもちろん私が考える良い医者、が必要だ。

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