![]() ● パパらんの贈りもの ●娘の心が動かされているのを感じていた私は、やり直してもいいということを以前から伝えてはいました。しかし、母親である私―人の収入で生活していくようになることを考えた娘は再受験を諦めていたようでした。でもどうしようもない父親の死に直面して改めてその願望が強くなったのでしょう。勿論私も経済的不安を感じなかった訳ではありません。それでもなんとかなると思い、再試験を喜んで認めました。しかしセンター拭験まで後4ケ月余りしかありません。とても一度の受験で合格するのは無理ではないかと思った私の心を見抜いたのか、 「何年かかってもやりたい。それでもいいか。」と念を押す娘です。もう応援するしかありませんでした。
父親の初七日を済ませて京都に帰った娘は、大学に休学届けを提出し、再び受験生生活に戻ったのです。厳しい毎日だったでしょう。でも必死の努力が実ったのでしょうか、拭験の済んだ後、思ったように出来なかったため合格を諦め、不合格を覚悟で合格発表を見に行った娘から
思い返せば、元気だった夫ががんと知ってから5ケ月余りの闘病生活でした。平凡に流されていた家庭生活が急に激流の中に放り出されたような毎日でした。夫はもとより、子供二人と私も必死でした。その時その時を大切に過ごしました。そして4人が一体となって夫の病と闘いました。最愛の人との死別という悲しい結果となってしまいましたが、私にとって21年間の結婚生活の中でも、最も信頼し合い、最も輝いていた時であったように思えて仕方ありません。
進学校と言われる私立男子校で、比較的恵まれた高校生活をのんびりと送っていた息子にとっても、衝撃的な出来事でした。高校2年生と言えば、いろいろ大学受験を身近に感じ出した頃です。余命6ケ月を告げられた日のことです。やはり父親を失うかもしれいということが彼に大きな衝撃を与えたのでしょうか、タ食の後片づけを済ませた前に座り、
夫が父親を失ったのは18才の年でした。その時のことを『父親は優しい人だったが、反面厳しいところがあって、僕など少し恐かった。だから、あまり面と向かって向かって話などしなかった。それが今となっては、親父に申し訳なかったという気持ちと、もっと親父と話しておきたかったという残念さばかり残っている。20才になって酒が飲めるようになった時、親父と飲みたいな一と思った。』とよく言っていました。
息子も丁度夫が父を亡くしたのと同じような年頃となっています。彼もまた、父親が思ったと同じようなことを思い返すのではないのでしょうか。
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