学校教育
 

● 学校の歴史 ●


 いつからなのか、電車に乗っていると夜の10時頃なのに小学生の姿を見るようになった。普通ならもう寝ててもおかしくない時間なのに、塾のカバンを肩からぶらさげ友達ときょうのテストの結果を話している 姿をみて、この子達は何のために夜の遅くまで勉強しなければならないんだろう?と複雑な気持ちになりました。
 一流といわれる大学に入るため?それとも一流といわれる会社に入るため?
 誰のため?子供のため?それとも親のため?

 今回から3回に渡って、日本の学校教育について欧米などの教育も参考にしながら、これから求められる学校教育とは何なのか、特集を組んで皆さんと考えてみたいと思います。

〜学校の歴史〜

 世の中には、「学校」といわれる場が多いことに気がつきます。それらの学校とはなぜ生まれ、いかに発展してきたかという、その歴史的背景を明らかにしなければならないでしょう。
 学校という言葉に本来どのような語義をもっていたのでしょう。英語の School の語源がギリシヤ語のスコレー Schole 、閑暇を消費する場所という意味で、紀元前600年頃のギリシヤの音楽場や体操場がそれにあたります。
 漢字の「学校」にはどのような意味があるのでしょうか。「学」は人、および子どもが、これをまね、ならう行為、そのための場所、建物を指しています。「校」は、物事を一ヶ所に集めそのよしあしを比べるという意味です。

 我が国の教育機関が「学校」と称した最初は、鎌倉時代の「足利学校」ですが、江戸時代に入ると徳川家康がその分校円光寺学校を創立。また荷田春満が「創学校啓」を著し、やがて岡山藩の閑谷学校が開校されます。その時代、300校ちかい藩校がありましたが「学校」という言葉を含むのは20校足らずだったそうです。しかし幕末期になると吉田松陰が学制改革案で大学校・兵学校・女学校などポピュラーな言葉として用いられるようになりました。

年代学校内容
1797年昌平坂学問所1630年冬三代将軍家光が創設させた林家家塾がその原型で、幕府直轄の学校として昌平坂学問所をスタートし、入学対象者は、旗本、御家人のみとした。
1624〜1871年藩校藩主や藩国のために役立つ人材育成を目的とし、初期は藩主、重臣のエリート階級のためのものであった。
幕末期には、等級制、学級編成、教科目制を導入し、また、教育対象を下級武士、一般庶民の入学を認めるところもあった。
1718年明倫館毛利吉元により解説された萩藩の藩校。広大な敷地に寮、講堂、書庫、演武道、医学所、銃陣場など、文武両道を修めるための諸施設を完備した、総合学術教育機関として機能した。
1765年医学校官医多紀元孝が幕府から神田佐久間町の地を借りて開設した躋奉館がもっとも早い。
1670年閑谷学校岡山藩祖池田光政の命によって和気郡木谷村(現備前町木谷)に創設された。城下に町方手習所を開設するなど公営の庶民教育機関の普及、発達に熱心だった。
1838年適塾長崎留学を終えたばかりの緒方洪庵が大坂瓦町に創めた蘭学塾。蘭方医として洪庵の診療と研究の余暇に学名を慕って集ってきた入塾者に教育活動を行ってきた。
1469年〜1868年寺子屋近世から近代初頭にかけて普及した庶民教育機関で、読・書・算盤ていどの初等教育を庶民の子弟の6、7歳から12,3歳におよぶ者を教授した。

index next back
[ HOME ][ セミナー ][ 求人・求職 ][ メーリングリスト ][ 会社案内 ]

ご感想・お問い合わせはこちらまで: r-net@mail.reference.co.jp
(C) Copyright by Reference,inc. 1997-1999(無断転載禁止)