我が国の教育機関が「学校」と称した最初は、鎌倉時代の「足利学校」ですが、江戸時代に入ると徳川家康がその分校円光寺学校を創立。また荷田春満が「創学校啓」を著し、やがて岡山藩の閑谷学校が開校されます。その時代、300校ちかい藩校がありましたが「学校」という言葉を含むのは20校足らずだったそうです。しかし幕末期になると吉田松陰が学制改革案で大学校・兵学校・女学校などポピュラーな言葉として用いられるようになりました。
年代 | 学校 | 内容 |
1797年 | 昌平坂学問所 | 1630年冬三代将軍家光が創設させた林家家塾がその原型で、幕府直轄の学校として昌平坂学問所をスタートし、入学対象者は、旗本、御家人のみとした。 |
1624〜1871年 | 藩校 | 藩主や藩国のために役立つ人材育成を目的とし、初期は藩主、重臣のエリート階級のためのものであった。
幕末期には、等級制、学級編成、教科目制を導入し、また、教育対象を下級武士、一般庶民の入学を認めるところもあった。 |
1718年 | 明倫館 | 毛利吉元により解説された萩藩の藩校。広大な敷地に寮、講堂、書庫、演武道、医学所、銃陣場など、文武両道を修めるための諸施設を完備した、総合学術教育機関として機能した。 |
1765年 | 医学校 | 官医多紀元孝が幕府から神田佐久間町の地を借りて開設した躋奉館がもっとも早い。 |
1670年 | 閑谷学校 | 岡山藩祖池田光政の命によって和気郡木谷村(現備前町木谷)に創設された。城下に町方手習所を開設するなど公営の庶民教育機関の普及、発達に熱心だった。 |
1838年 | 適塾 | 長崎留学を終えたばかりの緒方洪庵が大坂瓦町に創めた蘭学塾。蘭方医として洪庵の診療と研究の余暇に学名を慕って集ってきた入塾者に教育活動を行ってきた。 |
1469年〜1868年 | 寺子屋 | 近世から近代初頭にかけて普及した庶民教育機関で、読・書・算盤ていどの初等教育を庶民の子弟の6、7歳から12,3歳におよぶ者を教授した。 |