
● パパらんの贈りもの ●
毎朝父親のところに寄ってから登校していた,息子はその朝、私にこう告げました。
「お母さん。お母さんとお姉ちゃんは毎日お父さんを看病してたね。僕はしてへんから今日はどうしてもお父さんの側にいてお父さんの看病がしたい。」というのです。私は迷いました。でもすぐに結論を出しました。―日学校休んだとしても息子のこれから先にとってより大切なことを体験するのだと、深く思ったのです。そして、息子に『休んでいい。』と伝え、学校に連絡しました。,息子は嬉しそうに『ありがとう。』と答え、早速、口がカラ力ラになっている夫の口元に水を浸したガーゼを何度も何度もあてがっていました。夫は分かったかのように、そのガ一ゼの水を必死に吸っていました。
そして息子は私に向かって、
「お母さんは、毎日の看病で疲れているから、今日―日僕に看病させて。」そして
「家に帰って一旦寝てきてくれ」というのです。私は、息子の気持ちを思うと帰れずにはおれませんでした。
「ありがとう。そしたら一度帰ってくるね。」と洗濯物を手に帰宅しました。そしてそそくさとシャワ―を済ませ新しい洗濯物を抱えて急いで病室に戻りました。
病室に入り夫の顔を見た途端、あっと思いました。死相というのでしょうか、直感的にわかったのです。 しかしこの時すぐ気づけばよかったのですが、数日前に医師から『はっきりとした日数的なものは分かりませんが、あと数時間という段階になると分かりますから、その時はお知らせします。』とのことをはっきりと伺っていましたので、自分の感じた思いを打ち消したのです。娘にもこの段階ではまだ連絡しませんでした。夫は静かに眠ったままです。先日までの苦しそうな様子などもうどこにもありません。
そして昼も過ぎたころでしょうか、看護婦さんたちの動きが急に慌ただし<なったのです。不安がよぎりました。息子も看護婦さんたちの様子がおかしいと感じました。急いで看護婦さんに尋ねました。そして返ってきた返事はもう時間が無いということなのです。いっ起こるかも知れないということ、またいつ起きてもおかし<ないということ、との覚悟はしていました。しかし、娘は今日は大丈夫といわれた医師の言葉を信じ、思いを変えて試験に臨んだのです。私は慌てて娘に持たせていたポケットべルにメッセージを打ちました。どんなに乗り継ぎが順調にいき、最短時間で帰れたとしても2時間は充分かかります。
『何で?あれほどはっきり、あと数時間の段階ではわかるので伝えますと言われたではないか。」と悔しくてたまりませんでした。医師が何と言おうとも、行かせたのは私であり、行ったのは娘です。「試験なんかどうでもいい。お父さんの側にいる。」と言っていた娘。悔しさが何度も何度も押し寄せます。
夫の息遣いが変わりました。手を取ってみても分かります。脈がだんだん弱くなって行くのです。私は夫に向かって必死に語りかけました。
「お父さん、ほら、もうすぐ陽子が帰ってくるよ。私と一緒に息しようよ。」その度に夫は弱々しくはありましたが、私に合わせ息を吸い、息を吐くのです。私の声が聞こえるのです。私と一緒に息をしてくれるのです。近くに住んでいる私の弟は幸いにもすぐ駆けつけてくれていました。そしてその様了を見ていて、
「耕三さん、その調子ですよ。」と精―杯の声援を送ってくれました。
「お父さん、さあもう一度よ。」何回も何回も繰り返しました。どれくらいの時がたったでしょう。突然、ずっと夫の手を握っていた息子が、
「お母さん!どうしよう。お父さんが冷たくなっていく!」と叫びました。
静かな寝顔でした。主治医から臨終を告げられました。夫はその月の終わりに待っている誕生日を目前にして、51才の生涯を閉じたんです。がんとわかってから5ケ月余り、再人院から13日目のことでした。
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